これは私がマイケル・サンデルの『実力も運のうち』を読んで、忘れないようにアウトプットしておこうと思って書いたものです。
うん。ちゃんとした批評が読みたいのであれば、もうちょっとそういうのが得意な人の記事を読んだ方がいいかもです。
要するに、もし万が一何かの間違いでGoogle検索に引っかかってこの記事に到達した人がいたとしても、批判とか堪忍してなってことです。自分の言葉に変えて説明しているので本の内容に正確ではないです。
とはいえ、誰かの何かの役に立つこともあるかもしれないと思って、ここに残しておきます。
言い訳終了。
この本に書いてある内容を要約するにあたって、私だったらタイトルから切り込むのがいいかなと思います。
この『実力も運のうち』というタイトルを見た時に、私はこう思ったんですよ。
「あー、各大学の学生の親の平均年収を比べたとき、東大の学生の親の平均年収が一番高いとかそういう話がしたいのね」と。
つまり、今の市場主導の社会において、「実力」とやらによって人の収入なりなんなりが決まったりするわけだけれども、その人の「実力」は実際はどのようなどのような家庭に生まれるかによって完全にとは言わないまでも、明確な有利不利があるよねと。
「機会の均等」が不十分なために、現実は『実力も運のうち』となってしまっているね。これを正そうぜ。
そういう話だと思ったんですよ。
全然違いました。
この本の結論は、その逆です。
『実力も運のうち』である現実を、みんなもっと積極的に認めていこうぜ。
マイケル・サンデルはそういうことを言っています。
マイケル・サンデルは、本書を通じて、市場主義、実力主義、もしくは功績主義のような考え方が生む副作用を指摘しています。
実力主義の考え方は、運命は自分の意思と実力次第で変えることができると言います。この考えは、私たちをとても勇気づける、とても良いものに思えます。
この実力主義の考えは、競争で勝利した者に対して、こうささやきます。あなたが今手にしているものは、あなたの努力と才能によって勝ち得たものだ。だから、あなたは享受するに十分値する人間なのだと。
その裏面、実力主義の世界の敗者に対してこうも言います。そこにいる彼は手にしているものをあなたは手にできていないが、それはあなた自身の責任である。あなたには十分な努力と才能が足りていないから、手にできていないだけの話であって、つまりは自業自得なのだと。
実力主義の考え方は、あなたは単に値しないから、手にしていないだけなのだというメッセージを暗に伝えます。
もちろんこの考え方には問題があります。
これに対する最も一般的でよく聞く批判は、あなたがその実力を手にするに至ることができた要因には、あなたの生まれや性別、人種といった、個人の功績や責任とは言い難いものが多分に含まれている。その点で、この社会は十分にフェアでないと言う批判です。
実際、高収入の親を持つ子供が同じように高収入な職を得る確率は、貧困家庭で育った子供と比べてかなり高い。初めの東大の例だってそうだ。皆が同じ地点からスタートできているとは到底言えない。
だから、教育にかかる費用を国が負担し、性別や人種といった差別を無くし、より万人に可能性が開かれた社会に変えていこう。
つまり、機会の均等が十分でないのが問題である、という批判です。
しかし、この機会の均等論を考察してみると、それが実力主義の文脈から発生したものだということがわかります。
マイケル・サンデルは、実力主義の文脈そのものに横たわっている倫理的な問題を指摘します。
実力主義の考え方は、たくさんのものを手にした人には、私はそれを手にするにふさわしい人間なのだという裏付けを与えます。事実、私は多くの努力をし犠牲を払ってこれらを手に入れたのだ。だから、私はそれにふさわしい。
そして同時に、手にできなかった者たちには、なぜあなたが手にしていないのかその正当な理由を与えます。あなたには十分な機会が与えられたにも関わらず、あなたは手にできなかった。あなたがそれを手にしていないのは、当然なのだと。
この考え方は、勝者に驕りを与え、敗者に反論のできない屈辱を与えます。
仮に完全に機会が均等な社会を作ることに成功たとしても、この驕りと屈辱は緩和されるどころか何倍にも膨れ上がるでしょう。
自分は当然値するのだから手にしているのだ、という考えを持つようになると、手にできていない人々は値しない人間なのだと見下し、自身と彼らを並べて見ることを怠るようになります。一方手にできなかった人々は、ぶつける先のない怒りを蓄積し続けることになります。
こうして、実力主義、もしくは市場主義というものによって勝者と敗者が分けられ、それらで分断された社会が誕生します。
マイケル・サンデルは、トランプ大統領の誕生やイギリスのEU離脱といった現象を、実力主義的な考え方によって生まれた、人々の驕りとそれへの怒りによって説明します。
この、「手にしているのだからあなたはそれに値する」という実力主義的、市場主義的考え方には誤りがあります。
その一つは現実問題完全な機会均等が実現されていないというものですが、もし仮に完全な機会均等が実現された社会であっても、やはりそれは完全に「フェア」であるとは言えません。
なぜなら、あなたが持っているその能力が完全にあなたのものだと言えたとしても、その能力があなたの住む社会や市場で高く評価され貴重なものとされるかどうかは運に左右されるからです。
例えば現代社会では高い能力を持つ株のトレーダーは高給を手にできるかもしれませんが、その能力は資本主義的社会の中でしか評価されません。自身の持つ才が価値があるとみなされるか社会に生まれたことをその人の手柄とすることは難しいはずです。
だから、自分の持つ才能が自身の所属している社会の中で評価されるという幸運に恵まれた人は、きっとその社会を作り出した文化や歴史的な繋がりの中に、何か負っているものがあるはずだとサンデルは言います。
また、市場で対等な取引をして手にしたのだから、私はそれを受け取るのに完全に値する、という考えにも誤りがあります。
あなたが提供したものに対して市場が応えるのは、「人々の需要にどれだけ応えられたか」ということのみです。
マイケル・サンデルは小児科の医者とカジノのオーナーの例えを引き合いに出して、市場が応える価格は、その「真の価値」と必ずしも比例しないと指摘します。カジノのオーナーは小児科医や看護師の数百倍の給与を得ているが、それはつまり、カジノのオーナーという仕事は小児科医の数百倍の「価値」があるということを意味しているのだろうか?市場が定める給与はただ単にその人の仕事に幾ら支払う人々がいたかということにかかっていて、道徳的にふさわしいかどうかと関わりは無い。
私たちが他の税よりも酒税や煙草税を心理的に受け入れやすいのも、市場の下す価値の裁定と「真の価値」というものに差があるからです。市場は「善い欲求を満たす商品」にも「善くない欲求を満たす商品」にも分け隔てなく、幾ら稼いだかによって評価します。しかし、どうやら私たちは「善い欲求」と「悪い欲求」とを区別して考えるようで、いわゆる「悪行税」は市場の裁定と私たちの直観の差を埋めるという性質があるために正当化されやすいです。
突然ですが、なぜ私たちは労働の対価を通貨で受け取ることに同意するのでしょうか?
それは、私は、そしてきっとあなたも社会の中で生きているという前提があるからです。通貨は、人と人との関わり合いの中でしか意味を持ちません。一人で山中で狩りをして生きていくのに通貨など必要としません。
例え友人と呼べる人物が誰一人としていなかったとしても、コンビニで惣菜を買って生存に必要なエネルギーを得ている限り、私たちは誰かと繋がっています。
また、長年の不断の努力によって勝利を勝ち得ることができたとしても、自宅から職場へ続く道を整備した人々や、生きていくのに必要な水と食料を運んでくれる人々、さらにその背後にいる無数の人々と間違いなく繋がっています。
人間は、どれだけ孤独であったとしても、人との関わりの中で生きています。この記事を読むことも、スマートフォンを操作することも、通信ネットワークを使用することにも、その背後にはきっと誰かが存在します。
実力主義の「私が手にしたものに私は値する」という考えは、人は繋がり合っているという事実を見えづらくします。
なぜならば、自身の運命は自身の責任で負っていて、それ故に成功も失敗も己のものであるとするからです。
しかし、その理屈には誤りがあります。
市場の下す価値判断は、必ずしもその人の業績の道徳的価値を反映しません。市場に評価されたとしても、その人に「値する」だけの道徳的価値があるという保証にはなりません。
また、自分の運命を自身の力だけで掴み取ることもできません。その能力が市場に評価されるかどうかすら、文化的な繋がりの中で決められます。
ここ数十年アメリカでは、実力主義の自身の運命を自身で背負うという考え方が、市場が本来行うことのできる「市場価値」を判断するだけでなく、その人が「何にふさわしい人間なのか」という道徳的価値判断にまで強い影響を及ぼすようになりました。
しかし実際は、実力主義の言う自己責任的な世界観は正確ではなく、私たちの運命は様々な偶然によって左右されます。例え市場の言うところの「敗者」となったとしても、それは決して「あなたには価値が無い」と言うことを意味するわけではありません。
私たちは社会という繋がりの中で生かされており、社会の中ではどんな労働もその繋がりの輪の中に積極的に関与する行為です。
市場の言うところの勝者の驕りを減らし、敗者の屈辱の痛みをやわらげるにはどうしたらいいでしょうか?
マイケル・サンデルが言うには、『実力も運のうち』であることを認めることです。
「成功」した者も「失敗」した者も、自身の運命の偶然性や、人間社会の依存関係の存在を認めることです。
そうすれば、「自分だけの功績ではない」「自分も他者も社会の中で役割を持っている」ことが自覚でき、共同体の中でより互いを尊重する文化が育まれるはずです。
そういう内容の本でした。
私の本業はエンジニアです。この仕事をしていると日々様々なエラーに遭遇するのですが、大抵そのエラーは私が世界で初めて遭遇したものではなく、インターネット上の親切な誰かが共有してくれた解決法を見て修正します。
私がブログをはじめようと思ったきっかけは、私は日々誰かから知恵を授かっているのだから、自分も誰かに与えたいなと、そう考えたことでした。
この本を読んで、そんなことを思い出しました。
おしまいです。